二十三歳の夏、ニュージーランドの山の中腹にあるシェアハウスのバルコニーに立っていた。オレンジジュースを片手に、眼下の牧場を眺めていた。距離にして、三百メートルか四百メートル。遠目に、牛が見えた。五頭か六頭の乳牛が、思い思いの場所で、ただ草を食べていた。

それだけの景色だった。

でもその瞬間、それまで感じたことのない何かが来た。これが幸福かもしれない、と思った。

当時の私は、生き急いでいた。仕事は見つからなかった。お金は減り続けていた。英語が上達しているのかも分からなかった。日本を出てまでここに来た意味があるのか、ずっと自問していた。

朝起きてから夜眠るまで、頭の中はいつも何かに占拠されていた。完全に静かになることは、なかった。

でもあの朝、バルコニーに立って牛を見ていた時間、私の頭の中は静かだった。仕事のことも、お金のことも、英語のことも、考えていなかった。考えないようにしていたわけではない。ただ、考えていなかった。

その差は、小さいようで大きい。意図して考えないことは、考えていることだ。あの朝は、その意図すらなかった。

しばらくしてから、自然と一つの問いが浮かんだ。

「この素晴らしい景色が、私を幸福にしているのか?」

考えてみると、違った。

朝日に照らされた丘も、牛が草を食む光景も、確かに美しかった。でもその景色そのものが私を幸福にしているわけではなかった。お金がないこと、仕事がないことは、何も変わっていなかったのだから。

では、何が、あの静けさをもたらしていたのか。

牛を見ていた時、私はただ牛を見ていた。それを「美しい」とも「感動的だ」とも、評価していなかった。何かを求めて見ていたわけでも、なかった。ただそこにあるものとして、見ていた。

求めることを、忘れていた。

幸福らしきものは、求めた瞬間ではなく、求めることを忘れた瞬間にやってきた。これが、その後十年以上にわたって続く、私の問いの出発点になった。

そして、もう一つの発見があった。

「これが幸福かもしれない」と言葉にした瞬間に、その感覚は薄くなり始めた。

言葉にする前は、ただ状態があった。言葉にした後は、その状態を評価する自分がいた。評価された瞬間に、それは観察される対象になった。観察される対象になった瞬間に、私はその体験から少し離れた場所に立っていた。

体験と言葉の間には、断絶がある。

このことに気づいた朝でもあった。

なぜ十年以上経った今も、たったひとつの朝のことを考え続けているのか。

それは、その朝に芽生えた問いが、私自身についての問いだったからだ。「私は何を求めて生きてきたのか」「求めることをやめるとは、どういう状態なのか」「言葉にできない体験を、それでも言葉にしようとする意味は何か」——これらは、答えの出る問いではない。でも、問い続けることで、自分の輪郭が少しずつ見えてくる種類の問いだ。

私が哲学カウンセリングをやっているのは、こういう問いを、一人で抱え込まずに済む場所が必要だと思ったからだ。

人は誰でも、「あれは何だったんだろう」と思った瞬間を、人生のどこかに持っている。何気ない朝、誰かと交わした一言、ふと立ち止まった瞬間。その瞬間に芽生えた問いは、忙しさの中で、たいてい忘れられていく。

でも、その問いの種を、丁寧に取り出して、ゆっくり眺める時間があってもいい。一人で考えるには大きすぎる問いを、対話の中で深めていく時間があってもいい。

そういう時間を持つための場が、哲学カウンセリングだ。

あなたの「牛が草を食べていた朝」は、いつだったか。

その朝のことを、急がず、丁寧に、もう一度見つめ直してみる時間が、あってもいいかもしれない。


この朝のことから始まる長い思索の記録は、一冊の本にまとめました。よろしければ書籍『牛が草を食べていた朝のこと——幸福を手放した先にあるもの』もどうぞ。