自分のことを「自称哲学者」と呼んでいる。サイトのトップにもそう書いている。「自称」という二文字をつけている。これは意図して、そう書いている。でも考えてみれば、不思議な言葉だ。

なぜなら、「自称会社員」と名乗る人はいない。

「自称医師」と名乗ったらほぼ詐称になる。「自称小説家」もたまに聞くが、まだ商業出版がない人がよく使う言葉だ。「自称」という二文字は、ふつう、まだ正式には認められていない、というニュアンスを帯びる。だから「自称哲学者」と書く時、私は何かに対して「正式には認められていない」と告白していることになる。その「何か」とは、何だろうか。

「自称」を使う時、人は二つのことを同時にやっている。 一つは、謙遜だ。私は正式な資格を持っていません、ということを先に開示している。これは、相手に対する礼儀でもある。もう一つは、挑発だ。正式な資格は持っていないが、それでも私はこの肩書きを名乗ります、ということを宣言している。完全に降りるなら、「自称」もつけずに、ただ「哲学に興味のある一人の人間です」と名乗ればいい。でも私は、「自称」という言葉を残している。

少し角度を変えてみる。 「哲学者」と呼ばれている人を、いま日本でランダムに思い浮かべてみる。多くの人は、大学に所属する研究者を思い浮かべるはずだ。哲学の博士号を持ち、論文を書き、学会に所属している人。でもこれは、わりあい新しい光景だ。ソクラテスは大学に所属していなかった。広場で人と話をしていた。スピノザはレンズ磨きで生計を立てながら哲学を書いた。ショーペンハウアーは父親の遺産で暮らしていた。ウィトゲンシュタインは小学校の教師を経て、ようやく哲学に戻った。

哲学が職業として制度化されたのは、近代以降のことだ。大学に「哲学科」という箱ができ、そこに人が雇われ、ポストの取り合いをするようになった。それ以前の二千数百年間、哲学は職業ではなく、生き方の一つだった。私は、その「職業以前の哲学」の方を、自分の参照点にしている。

では何をもって、哲学者と呼ぶか。 私の答えは、こうだ。問いを丁寧に扱う実践を続けている人。それだけだ。問いを丁寧に扱うとは、何か。答えを急がないこと。問いの形そのものを疑うこと。自分の前提を一度ほどいてみること。言葉が指しているものと、自分が体験していることのズレを、見つめ続けること。

これらの実践に、博士号は必要ない。論文発表の実績も必要ない。誰かにあの人は哲学者だと箔を押してもらうことでもない。必要なのは、問いから逃げないことだ。

「自称」という言葉を私が使うのは、制度的な意味での哲学者ではないことを認めるためだ。同時に、実践としての哲学をやめていないことを示すためでもある。手放したものと、手放していないものを、両方明示している言葉が「自称」だ。

哲学カウンセリングという仕事をしているのも、この延長線上にある。 私はあなたに、哲学の知識を教えるわけではない。アカデミックな概念史を整理するわけでもない。やっているのは、問いを丁寧に扱う実践を、あなたと一緒に行うことだ。それだけだ。それだけだが、それは案外、一人ではできないことでもある。

問いから逃げないことを、一人で続けるのは難しい。日常は、問いを薄めるためにできている。仕事、家事、SNS、誰かとの会話——気がつくと、問いは脇に押しやられている。対話の場が、その問いを、もう一度真ん中に戻す。

私が提供しているのは、資格でも、答えでも、知識でもない。問いを真ん中に戻すための、一時間だ。

「自称」という二文字には、私が手放したものと、手放さなかったものが、両方含まれている。手放したのは、肩書きへの依存。手放さなかったのは、問い続けることそのもの。肩書きを持たずに哲学をする、というのは、つまりそういうことだと、今のところ私は考えている。そして、誰もが自称哲学者になれる。