「普通に考えて、それはおかしくないですか」

「普通の人なら、そんなことしないですよ」

「うちは普通の家庭で、特別なことは何もなくて」

「普通の感覚として、それはちょっと」

一日に何度、私たちはこの言葉を口にしているだろうか。

「普通」は、たぶん、日本語で最も頻繁に使われる言葉のひとつだ。「普通」「普通の」「普通に」——いろんな形で、私たちはこの言葉を、生活のあらゆる場面に差し込んでいる。

それなのに、不思議なことに、「普通」を定義した人を、私は見たことがない。

普通とは、何か。誰のことなのか。どこに住んでいる、どんな仕事をしている、どんな価値観を持った人のことを、私たちは「普通の人」と呼んでいるのか。

定義を聞かれると、たぶん、ほとんどの人は答えに詰まる。それでも、私たちはこの言葉を、毎日使っている。

これは、何を意味しているのか。

「普通」という言葉は、定義されないことで、機能している。

定義されると、機能しなくなる、と言ってもいい。

たとえば、「普通の家庭」を、年収四百万から八百万の、両親と子ども二人の核家族、と定義してしまったとする。そう定義された瞬間、「普通の家庭で育った」と言う時の、あの曖昧な共感の空気は、消える。聞く側は「あ、四百万から八百万の家ね」と冷静に受け取ることになる。話し手と聞き手の間に、共有の温度が生まれない。

「普通」が機能しているのは、定義されないままで、なんとなくお互いに同じものを想像していることになっている、その錯覚の上にだ。

実際には、話し手の想像している「普通」と、聞き手の想像している「普通」は、たぶん、別物だ。でも、両者がそれを確かめあわないで会話を進めるから、「お互いに『普通』を共有している」という雰囲気だけが、残る。

これは、日常会話の潤滑油として、悪くない働きだ。いちいち定義していたら、会話は進まない。「普通」という曖昧語があるおかげで、私たちは細かい確認をすっ飛ばして、コミュニケーションできる。

ただ、この便利さには、代償がある。

「普通」という言葉を使う時、話し手は、自分の立場を透明にしている

「普通に考えて、それはおかしい」と言う時、話し手は「私はこう考える」と言っているわけではない。「普通の人はこう考える」と言っている。つまり、話し手の主観を、世間一般の客観に、こっそり書き換えている。

書き換えることで、何が起きるか。

第一に、話し手の責任が消える。「私はそう思う」なら、その意見の責任は話し手にある。「普通に考えてそうだ」なら、責任は「普通の人々」という、誰でもない誰かに移される。話し手は、自分の意見を、まるで誰かから預かったかのように、語ることができる。

第二に、聞き手は反論しにくくなる。「私はそう思わない」とは言える。でも「普通の人はそう考えない」と言われると、反論するには「自分は普通ではない」と認めることになる。これは、思っているより重い。

「普通」という言葉は、知らないうちに、話し手を強くし、聞き手を弱くする装置として、機能している。

哲学カウンセリングのセッションで、よく聞く言葉がある。

「普通の人なら、こんなことで悩まないと思うんですけど」

「普通の家庭なら、こうなんですよね、たぶん」

「普通に幸せに生きたいだけなのに」

これらの言葉を口にする時、その人は、たいてい、自分を「普通の外側」に置いている。

普通の人は悩まない。だから悩んでいる自分は、普通ではない。 普通の家庭はこうだ。だからそうではない自分の家庭は、普通ではない。 普通に幸せになりたいのに、自分はなれない。だから自分は、普通ではない。

「普通」を持ち出すたびに、その人は、自分を普通から疎外している。

そして、ここに、ひとつの問いが立ち上がる。

その「普通」は、本当に存在しているのか。

「普通の人は悩まない」と言うが、本当にそうだろうか。たぶん、ほとんどの人は、何かで悩んでいる。あなたが悩んでいるそのことについて、悩んでいない人は、たまたまそのテーマで悩んでいないだけかもしれない。別のテーマで、別の悩みを抱えているはずだ。

「普通の家庭」も、よく見ると、どこにもない。家庭はすべて固有で、近づいて見れば、必ず何かしらの摩擦や、欠落や、独自の事情を持っている。「普通の家庭」というイメージは、私たちがメディアやドラマから組み立てた、抽象画のようなものだ。

「普通の幸せ」も、定義しようとすると、輪郭が崩れる。

つまり、「普通」を使って自分を疎外している時、私たちは、実在しないものに照らして、自分を測っていることになる。

「普通」をやめる、という話ではない。

この言葉は、便利だ。日常の潤滑油として、必要だ。会話を進めるためには、ある程度の曖昧語が要る。それを全部やめてしまったら、会話は息苦しいものになる。

ただ、自分が「普通」と口にした瞬間に、何が起きているかは、知っておいた方がいい。

自分の意見を、誰でもない誰かの意見に書き換えているとき。 自分を、実在しない基準に照らして疎外しているとき。 聞き手に、反論しにくい状態を作っているとき。

これらは、悪意で起きていることではない。ほとんどの場合、無意識に起きている。だから、無意識を意識化するだけで、少し変わる。

「普通に考えて」と言いそうになった時、それを「私はこう考える」と言い換えてみる。

「普通の家庭」と言いそうになった時、自分が実際に育った家庭の具体を、思い出してみる。

「普通に幸せに」と言いそうになった時、自分にとっての具体的な幸せの形を、ひとつでいいから、挙げてみる。

これだけで、言葉の解像度が、変わる。解像度が変わると、自分自身の輪郭が、少しだけはっきりする。

「普通の人」とは、誰のことか。

たぶん、それは、いま自分ではない、どこかの誰かのことだ。

その誰かは、定義されないまま、私たちの会話の中を、毎日歩き回っている。私たちは、その誰かと自分を比べて、ときどき安心し、ときどき疎外感を抱える。

その誰かは、たぶん、実在しない。

実在しない人と比べることをやめると、自分の輪郭が少しずつ見えてくる。輪郭が見えてくると、自分が本当に何を考えているか、何を求めているか、何に悩んでいるかが、わかりやすくなる。

「普通」を疑うことは、自分自身に戻ることだ。

普通を疑った先に、ようやく、自分の言葉が始まる。