「推し」という言葉が、日本語に定着してから、何年くらい経っただろうか。

正確な起点はわからない。でも、十年前にはここまで一般的ではなかった。いま、この言葉は、芸能人を語る時にも、アニメキャラを語る時にも、スポーツ選手を語る時にも、職場の同僚を語る時にも、使われる。「私の推しなんですけど」と言えば、相手はだいたい、その後に何が来るか予想できる。

これは、不思議な定着の仕方だ。

「好き」「ファン」「贔屓」「愛している」——同じ領域を指す言葉は、すでにあった。それなのに、私たちはわざわざ「推し」という新しい言葉を導入した。導入したということは、これまでの言葉では言えなかったことが、あったということだ。

何が言えなかったのか。

「好きな人」と「推し」を、並べてみる。

「私の好きな人」と言うと、その対象との関係が、双方向であることを期待しているように聞こえる。好きな人とは、いつか言葉を交わせるかもしれない。会えるかもしれない。気持ちが届くかもしれない。「好き」には、関係への期待が、薄く貼り付いている。

「私の推し」と言うと、関係はそこに含まれない。むしろ、双方向であることが期待されていない、ということが、最初から織り込まれている。

推しは、こちらを認識しない。 推しは、こちらに返事をしない。 推しは、こちらが何をしようと、ほぼ何も変わらない。

それを承知の上で、こちらは推す。「推し」という言葉には、この非対称性の承認が、最初から含まれている。

これは、「好き」では言えなかったことだ。「好きな芸能人」というと、どこかで関係を期待しているように聞こえる。「推しの芸能人」というと、関係を期待していないことが、明確になる。

非対称性を承認したまま、それでも何かを差し出す——これは、よく考えると、不思議な感情の形だ。

見返りがないことを知っている。届かないことを知っている。それでも、お金を使う、時間を使う、心を割く。これは、伝統的な「好き」とは違う、ある種の贈与に近い。

宗教的な祈りに似ている、と言うと、言い過ぎだろうか。祈る人は、神が返事をするとは思っていない。でも、祈る。返事を期待していないことが、祈りを祈りたらしめている。

「推し」も、それに少し似ている。返事を期待していないことが、推しを推したらしめている。返事が来てしまうと、たぶん、関係の質が変わってしまう。だから、距離があることが、構造的に大切なのだ。

これは、「好き」では持ちにくかった姿勢だ。「好き」は、近づこうとする。「推し」は、近づきすぎないことを、選ぶ。

しかし、ここで一つ、問いを立ててみる。

「推し」と呼んでいる対象は、本当に「推しの本人」なのだろうか。

私が推している芸能人について、私は、どのくらいその人を知っているだろうか。インタビュー、SNS、ステージ上の振る舞い——これらを通じて、私はその人の像を作り上げている。でも、その像は、本人そのものではない。本人の一部の、加工された情報から、私が構成したものだ。

私が推しているのは、私が構成したその像であって、本人ではない。

これは、批判ではない。むしろ、推しという行為の構造上、必然的にそうなる。本人に会えないし、本人と話せないのだから、推しの対象は、こちらの想像の中で組み立てられたものになる。これは避けられない。

ただ、この構造を自覚すると、ある事実が浮かび上がる。

「推し」とは、誰よりも、自分自身が見たい姿を映し出した鏡であるということだ。

私が推しに見ている「優しさ」「真剣さ」「強さ」「儚さ」——これらは、対象の中にも、たぶん、ある。でも、私がそれを「見つけている」のは、私自身がそれを必要としているからだ。

つまり、推しは、対象についての言葉であると同時に、推している側の人間についての言葉でもある。

「あの人が私の推しです」と言う時、私はたぶん、自分が何を求めているかを、知らず知らずのうちに、開示している。

「推し」という言葉が普及したことで、私たちは、ひとつのことを獲得した。

距離を保ったまま、何かを愛してよい、という姿勢だ。

これは、現代の人間関係の希薄さの結果だ、と批判されることがある。本物の関係を築く力を失った若者が、安全な距離からの愛情で満足するようになった、と。

私は、その見方には、半分しか同意しない。

たしかに、距離を保つことには、安全がある。傷つかなくて済む。でも、それを「人間関係の希薄化」とだけ言うのは、少し雑な気がする。

距離を保ったまま愛するという行為には、別の意味もある。相手の人生に介入しない、という意味だ。相手の選択を、相手の生き方を、こちらの期待で歪めない。これは、近すぎる関係の中では、案外、できないことだ。

「好き」だと、人はつい、相手に何かを期待する。期待は、相手を変えようとする。 「推し」だと、相手は相手のままでいい。こちらが何を求めようが、相手は相手の人生を、相手のペースで生きる。

これは、ある意味、成熟した愛情の形でもある。

ただ、もうひとつ、見ておきたいことがある。

「推し」が増えると、「好き」が減るのではないか、という問いだ。

距離を保った愛情は、確かに安全だ。でも、安全な愛情ばかりに慣れると、危険を伴う愛情を、人は引き受けにくくなるかもしれない。傷つく可能性のある関係、相手と本気でぶつかる関係、互いに変えあう関係——これらは、推しの構造では、起こりえない。

「推し」では言えることが増えた。同時に、「推し」では決して経験できないことも、ある。

これは優劣の話ではない。並列の話だ。推しの世界にいる時間と、好きな人と向き合う時間——両方ともが、人生には必要なのかもしれない。

最後に、ひとつだけ、問いを残しておく。

あなたが「推し」と呼んでいるその対象に、あなたは、何を映しているのか。

その対象に「優しさ」を見ているなら、あなたはたぶん、誰かの優しさを必要としている。「強さ」を見ているなら、強さを必要としている。「儚さ」を見ているなら、儚さに惹かれる何かが、自分の中にある。

推しを語ることは、対象を語ることであると同時に、自分自身を語ることでもある。

推しのことを誰かに話す時、あなたは、自分のことを、思っているより多く話している。